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フランス 西ヨーロッパ

2016パリ12 レ・ミゼラブルのパリ⑤ ジャンバルジャンとコゼットが隠れ住んだ修道院の場所が今ひとつ分かりにくかった件

2020/04/16

ゴルボー屋敷に隠れ住んでいたジャンバルジャンとコゼットは、サンメダール教会にも良く行った。この教会はゴルボー屋敷から約1kmの距離で、小さな子どもとの散歩には絶好の場所だったのだろう。

「ジャン・ヴァルジャンは用心して昼間は決して外へ出なかった。そして毎日夕方に一、二時間散歩した。時には一人で、多くはコゼットとともに、その大通りの最も寂しい横町を選び、また夜になると教会堂にはいったりして。彼は一番近いサン・メダール会堂によく行った。」(レ・ミゼラブル「コゼット」)


バルジャンはここでも多くの施しをし、それが質素な身なりに似つかわないことから「施しをする物乞い」として有名になり、それがジャベールの耳に入ることになる。

サン・ジャック・デュ・オー・パ会堂では、施しが目立ったためにテナルデに目をつけられ結果大火傷を負うことになるのだが、ジャンバルジャンにとって施しは重要な義務だったのだろう。それが自分を追い詰める結果になっても彼は施しをやめない。21世紀を生きる日本人には、直接的に金品を「与えること」に抵抗を感じないでもないけれど、そこは18世紀のフランス、だもんな。

ちなみにここサンメダール教会では、1727-32年頃に「サンメダールの奇跡」と呼ばれる有名な「事件」が起きる。「事件」は1727年に司祭フランソワ・ド・パリがなくなった後に始まった。

司祭の死後、曰く「足萎えの少年が歩けるようになった」、曰く「肌の腫瘍が消えた」、曰く「失明していたのに目が見えるようになった」、曰く「物理的な苦行を行っても傷一つつかない」、等々、不思議な「奇跡」が起こった。これが穏やかな「奇跡」でカトリック教会で起きていたのなら良かったのだけれど、亡くなった司祭がバチカンが否定したカトリックとしては「異端」のジャンセニスムの信奉者だったこと、そして信奉者が恐ろしい「苦行」を行ったことが話をややこしくした。この怪しい噂を否定しようと「調査」に入った判事が見たものは、グロテスクとも言える「苦行」であり「奇跡」であり、彼はルイ15世に投獄されたのにも関わらずその体験を出版する。それはもうジャンセニスムの域を超えた狂信的な世界だったように思える。興味のある人は、この辺からいろいろ調べてみると良い。

 

そしてサンメダル教会の近くには、テナルデが鑿(たがね・のみ)を買ったピエール・ロンバール街・ムーフタール街がある。

「彼(テナルデ)はムーフタール街を離れた。マリユスはグラシユーズ街の最も下等な家の一つに彼がはいるのを見た。十五分ばかりして彼はそこから出てきて、それからまたムーフタール街に戻ってきた。当時ピエール・ロンバール街の角にあった金物屋に彼は足を止めた。それからしばらくしてマリユスは、彼がその店から出て来るのを見た。彼は白木の柄のついた冷やりとするような大きな鑿を、外套の下に隠し持っていた。プティー・ジャンティイー街の端まで行って彼は左に曲がり、足早にプティー・バンキエ街へはいった。日は暮れようとしていた。」(レ・ミゼラブル「マリユス」)

この鏨はゴルボー屋敷でバルジャンの腕を焼く。

ゴルボー屋敷に近いイタリー広場からゴブラン通りを北上し、サンメダール教会を右手に見ながら更に北上すると、通りは狭くなり、ムフタール通りに入る。ここは「パリの胃袋」とも言われるほど飲食や食材関係の店が多く、生活感に溢れる街だ。ジョントレッドと名乗っていたテナルデは、ここムフタール通りの路地だったピエール・ロンバール街で、ジャンバルジャンを脅迫するための鏨を買う。ムフタール通りは今も賑やかだが、ピエール・ロンバール街が今どこになるのかは分からない。

 

 

ジャンバルジャンとコゼットが隠れ住んだパリの住居のうち、ゴルボー屋敷に次いで重要なのがプティー・ピクプュス修道院だ。

リュクサンブール公園で正体に気がついたジャベールに追われパリ5-6区周辺を逃げ回った二人は、プティー・ピクプュス(ピクプュス小路)62番地にあった修道院、"プティー・ピクプュス・サン・タントアーヌ修道院"に逃げ込む。そこにはかつてバルジャンが助けたフォーシュルバンが庭師として働いており、二人はなんとかジャベールの追跡を振り切る。ゴルボー屋敷にジャンバルジャンとテナルデとマリユスが住んでいた以上の「偶然」だけれど、ここも「お話」なので良しとしよう。問題は、この架空の修道院が見つからないことだ。

"プティー・ピクプュス・サン・タントアーヌ修道院 (Le couvent du Petit-Picpus-Saint-Antoine)" の場所は、「プティー・ピクプュス・サン・タントアーヌの修道院は、ポロンソー街とドロア・ムュール街とピクプュス小路と、今はつぶれているが古い地図にはオーマレー街とのっていた小路とが、互いに交差して切り取った広い四角形のほとんど全部を占めていた。四つの街路はその四角形を溝のように取り巻いていた。」(レ・ミゼラブル「コゼット」)とある。

古い地名のこの情報では場所がなかなか特定できなかったのだが、いろいろ調べてみるとこんなサイトが見つかった。ここによると、修道院のモデルには4カ所の可能性があるが、物語の舞台としては”The block formed by the rue Amyot, the rue Lhomond, the rue du Pot-au-Fer, and numbers 16-20 rue Tournefort (former rue Neuve-Ste-Geneviève)”と考えられるらしい。ここはゴルボー屋敷から2kmと離れていない。

原作には「彼はクレー街を後ろにして、次にサン・ヴィクトルの泉の所を通り、植物園に沿って低い街路を進み、そして川岸まで達した。そこで彼はふり返ってみた。川岸にも街路にも人影はなかった。自分の後ろにはだれもいなかった。彼は息をついた。彼はオーステルリッツ橋にさしかかった。」とあるので、逃亡先はオーステルリッツ橋を渡った12区を想像するのが自然なのだが、物語の主たるモデルはあくまで ”hte monastery of the Bénédictines du Saint-Sacrement” ということになるようだ。

 


うーむ、どこに修道院があったのか、まるで想像がつかない。

パリのレミゼラブルの舞台の中で、一番分かりにくいのがここだった。舞台として実感しにくいと言っても良い。もしかしたら「来た甲斐があまりない」とまで言っても良いかもしれない。

私は修道院はオールリッツ橋を渡った先だと思っていたので正直ピンとこないのだが、少なくない人がここをモデルだと言う。だれか詳しい人がいたら教えて欲しいとかなり本気で思う。多分、上に書いたように「”プチ・ピクピュス修道院の所在地”として少なくとも4つの場所を挙げられる」というのが正解なのだろうな。

「創作」であるユゴーのロケーションとパリの市街整備による街路名の変更、なにより150年という時間が、舞台のロケーションを曖昧にする。それでもいろいろ調べればある程度のことが分かるのがおもしろみではあり、それを突き詰めた人によるこんな本の存在も知った。パリに行く前に読んでおけばよかったと、今めちゃくちゃ後悔している。「レ・ミゼラブル」百六景 (文春文庫)


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