2017ウズベキスタン18 ブハラ・ソ連時代も開かれていた神学校と墜落刑が行われたミナレットが並んでいた件
そろそろイスラム建築でお腹がいっぱいになってきたが、そこは世界遺産のブハラ歴史地区、旧市街の西側を見ただけではまだまだ許してはくれない。
アルク城の南東端から100メートル程歩くと、ここにもなかなか魅力的な建物がある。ミル・アラブ・メドレセとカラーン・ミナレットだ。
左側にある青いドームを持つ建物がミル・アラブ・メドレセだ。16世紀に建てられたこの神学校は中央アジアでも最も権威のあるものの一つで、その世界では有名な19世紀の神学者 Donich Ahmad Bukhari もここにいたのだそうだ。そのせいかどうか、ここに侵攻したソ連軍もメドレセの継続を許した。
この時代のソ連は基本的に宗教は麻薬とあまりその存在を認めなかったのだけれど、スターリンが「祟りを恐れて」市内の宗教施設を認めたその一つ、という説もある。住民の感情を逆なでしないためではなく「ソ連軍がどこぞの廟を敬意を持たずに開けて入ったところドイツ軍のソ連侵攻が始まったからびびった」という話が残っているのだ。
ゲートは青と白のタイルで紋様が描かれている。なかなか美しい。ハンはこのメドレセを作るために「3000人の奴隷を売った」とのこと。人身売買で作られた神学校というのもなんだか納得いかないのだけれど、これも21世紀に生きる旅行者の戯言だな。
そして、メドレセの横にそびえ立つのが、高さ46メートルのカラーン・ミナレットだ。
建てられたのは1127年、12世紀のブハラではこのミナレットの高さ46メートルは、街のシンボルにふさわしいものだったのだろう。ミナレットはブハラのランドマークであり、ハンの権力の象徴だった。
この塔があるおかげで、ミル・アラブ・メドレセは「パイ・ミナル(ミナレットの麓) 」と呼ばれる。あんまり高すぎて、18-19世紀には死刑囚を生きたまま袋に入れて投げ殺したという血なまぐさい歴史もある。最後の死刑は1884年に行われたらしい。
ミナレットの東100mの場所には、タキバザールがある。タキバサールは大通りの交差点を屋根で囲ったバザールとのことなのだが、周辺の道路は工事まっただ中で広場だか道路だかも分からない。ただ、一番大きな建物には小さなドームが連なり、その様子はちょっと珍しい。
内部は完全に観光客相手の土産物屋街と化している。中の写真を撮っていたら「1ドルよこせ」と言われた。なんてこった。
ただタキバサール(かその近隣か)には、観光客相手ではあるけれど刀剣の店があり中で作業の様子を見せてくれた。印象のよろしくないタキバザールの中で、ここだけは面白かったな。
タキバザールから宿のあるラビハウズに向かって南に歩く。イスラム建築はもうお腹いっぱいだ。そろそろ宿に戻って一休みしたい。この途中こんな建物があって写真を撮っているのだが、
ここが何なのか、全く記憶にない。