世界、大人の社会科見学!

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ポーランド

2017-8ポーランド10 アウシュビッツ2 強制連行の列車が到着したビルケナウを歩く

アウシュビッツには3つの強制収容所があった。

1つが今見てきた「基幹収容所」とされたアウシュビッツ、2つ目は1941年10月に開所した第二強制収容所ビルケナウ、そして3つ目が1942年から44年までの間に作られた近隣の炭鉱や工場に付随して作られた収容所群である「第三収容所モノヴィッツ」なのだが、モノヴィッツはソ連軍によって破壊され現在は残っていない。

現在見学可能なのはアウシュビッツと3.5km程離れたビルケナウの2カ所だけで、この間は10-20毎に走る無料シャトルバスで移動する。

当時のドイツが運営していた収容所のうち、、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所、ヘウムノ強制収容所、ベウジェツ強制収容所、ルブリン強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所の6カ所は「絶滅収容所」と言われる。

公式文書では使われなかったこの "Vernichtungslager" 「絶滅収容所」という言葉のこの施設はジェノサイドを主たる目的とする収容所であり、死亡率の非常に高い「強制収容所」「強制労働収容所」とは本質的に違う。ここは絶滅=殺戮の場だった。

バスを降りると、1944年5月に完成した、あの有名な「強制収容所内まで延びる鉄道引込み線」が目に入る。

犠牲者はナチスの支配下にあった各地域から、ここまで貨車で送られた来た。その貨車は今も残されている。もちろん内部が快適である訳がなく、到着前に亡くなる犠牲者も少なくはなかったらしい。

到着した人たちは、貨車から降ろされ、ここで労働をさせられる人、人体実験に使われる者、そしてガス室に送られる人に選別された。


ガス室は引き込み線の西端近く、ホームの中央から僅か500メートルの場所にある。アウシュビッツ・ビルケナウ収容所でも、ここビルケナウが「絶滅収容所」と呼ばれた理由が痛いほど伝わってくる。

ビルケナウのガス室は、アウシュヴィッツ第一強制収容所のガス室のようにその姿を保っていない。

連合国軍が攻め入りアウシュビッツに到着する前に、証拠隠滅のために破壊しようとしたのだが、あまり時間はなく慌てていたようで残骸はそのまま残っている。

犠牲者はこの階段からガス室に入れられた。

絶滅収容所であるビルケナウにも労働施設はあり、ガス室に送られなかった収容者はアウシュビッツ1よりずっと広大なビルケナウの敷地に建てられたバラックで暮らした。その一部は保管管理されつつ今も残されている。


一部のバラックは、その内部を見ることができる。

バラックには煉瓦作りのもの、そして木造の物があったが、木造バラックの多くは戦後の混乱期に木材が剥がされ、今では基礎と暖房施設と煙突だけが残されている物が多い。ただ焼却炉が並ぶように見えるこの光景は、実は木造バラックの跡だ。

”Death Barrack”。ガス室に送られる前の女性を隔離したバラックであり、いつも人で溢れ、ここで命を失った人も少なくなかった。

ツアーに参加した人は、ビルケナウ収容所入り口の監視塔上部に入ることができる。ここのドアは基本閉ざされており、鍵は公式ガイドしか持っていないのだ。

3時間のツアーはここで終わりになる。中谷さんは「後は思う存分写真でも撮って、過ごして下さい」と言う。

ガイドをしておる途中にデジカメやスマホで写真を撮りまくっている参加者に、あまりいい印象をもっていないようにも受け取れる言葉だったが、そこは見学者側にもそれぞれの想いがあるし、写真を撮っていても話を聞いていないわけじゃない。画像は記憶をたぐりよせるのに極めて有効な情報なので、ご理解いただけるとうれしいのだが。

アウシュビッツ第1収容所からクラクフまでのバスは、19:45まである。

私はツアー後の時間を広いビルケナウの敷地を全て歩いて過ごしたのだが、アウシュビッツ1に戻った時には既に入場時間を過ぎていた。冬は入場終了時間がとても短いこと忘れていたのだ。

帰路のバスは結構混む。往路よりも混んでいて、少し早めに並んで置かないと座ることはもちろん乗り切れないこともありそうな様子だった。クラクフまでの90分を座って行きたい人は、少し早めに並んでおいた方が良いと思う。

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