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2018ジョージア16 トビリシのスターリン地下印刷博物館からは古い社会主義の匂いがした件

2022/10/03

ソ連の第2代最高指導者であるスターリンは、ロシア帝国の支配下にあったジョージアで生まれた。

世界のスターリンに対する評価は、必ずしも好意的じゃない。彼による大規模な政治弾圧で、一説によると数百万人の人が命を失ったと言われる。

これはおそらく誇張ではなく、実際にロシア公文書館が公開したソ連内部人民委員部(NKVD)の統計資料によると、1937年には779056人の政治犯が逮捕されその44%である353074人が、翌1938年には583326人の政治犯が逮捕されその59%である328618人が処刑された。公式記録に残された2年間だけの犠牲者だけでも70万人近くが犠牲になっている。

更には尋問中や服役中の死者、飢饉による死者なども多くあり、粛正の時代ソ連の人口は数百万人減ったというのは人口統計にも記録されているのだそうだ。一般に「大粛正」と言えば、このスターリンによる粛正をさす。

更にスターリンの評価を下げたのは、この大粛正が政治的、あるいは社会的混乱から発生したのではなく、レーニンの後継者のポジションを守る権力争いと、スターリン自身の猜疑心がこの大量殺戮事件を起こした、という説だ。スターリンは敵対関係にあった者を生かしておけば、やがて自分が殺されると考えた、とも言われている。

まぁこれだけのことをやれば、権力を失えばソ連内部からの批判も受ける。スターリンの死の3年後である1956年、党第1書記、つまりは最高権力者であるフルシチョフから、悪政や粛正の実態が暴露された。「個人崇拝とその結果について」と題されたその報告は、ソ連による公式なスターリン批判として知られる。

その権威が失墜し批判の対象となったスターリンの遺体はレーニン廟から撤去され、ヴォルガ河畔にあったスターリングラード市はヴォルゴグラードに名前を戻され、国内各所にあった彫像は撤去された。あのソ連ですら多くの命を奪った独裁者は許されなかったわけだ。

しかし、死後66年が経過し「過去の歴史上の人物」となりつつあるスターリンへ、肯定的な感情を抱くロシア人が、2019年50%を越えたらしい。スターリンは大粛正を行った独裁者であると同時に第2次世界大戦でソ連に勝利をもたらした英雄、という評価もあり、ロシアの18歳以上約1600人への調査によると、「スターリンにどんな感情を抱くか」という質問に対し、4%が賞賛、41%が尊敬、6%が好意的と答え、反感と答えた人は6%だったという。多分故郷でもあるジョージアだけだと、好感度は更に高くなるだろう。

そのジョージアの首都であるリビシには、当時ジョージアもその一部であった帝政ロシア政権下で、スターリンがポリシェビキのプロパガンダパンフレットを作成していた秘密の印刷所がある。

"Stalin's Underground Printing House"(スターリン地下印刷博物館) だ。

地下鉄300Aragveli 駅から徒歩8分、ENMEDIC病院の東側にある。宿のあるRustaveliからは地下鉄で3駅、徒歩を入れても20分で到着する距離だ。

この煉瓦造りの一見瀟洒な煉瓦造りの建物がスターリン地下運殺博物館だ。思いの外小ぎれいで規模の大きな入口なのは、多分ここがグルジア共産党本部でもあるからなのだろう。しかし現在ジョージア共産党は議会に議席を持っておらず、そこそこの規模のこの建物には人の気配がない。もしかしたら、もう博物館としてしか機能していないのでは、とも感じてしまう。ソ連時代にはそれなりの施設だったのだろうにねぇ。


古く塗装の剥がれかけた大きなドアには、共産党のシンボルである鎌と槌が描かれている。レーニン主義と旧ソ連の象徴だ。

博物館は、(一部、あるいはかなりが復元された)秘密印刷所と、本館の展示室に分かれる。あまり人の気配がない博物館についたばかりだったけれど、数人いた他のグループが印刷所に入るとのことで、同行させてもらう、というよりは「お前も一緒に来い」と連行される。印刷所はガイドが同行しないと入ることができないため、私ひとりのためにもう一度案内するのは確かに効率が悪い。

一見何の変哲もないこの家は、当時ロシアの鉄道局で働いていた Rostomashvili氏の所有する土地であり、Mikhell Bochoridzeという人がその土地に秘密の印刷所を作る個とを働きかけた、とのこと。もともとあった家に隠し部屋を作るのではなく、最初から地下印刷所を作るために二部屋しかない家を建てたのだそうだ。


何の変哲もなく見えるこの家の内部には深い井戸があり、スターリンたちはこの井戸を降りて地下印刷所に出入りしていた、とのこと。その深さは15メートルとのことで、これはビルの4階分にあたる。密輸した印刷機を下ろすのも大仕事だったのだろうな、と思う。


見学者はというと、井戸につるされることなく地下室に続く螺旋階段を降りる。

昔は井戸の横穴から出入りをしていたという印刷室に入る。

「時としても旧型だった」と説明された印刷機は、ポルシェビキ支持者のネットワークによって密輸され、部品単位でトビリシに持ち込まれたのだそうだ。秘密印刷所が稼働したのが1904年、印刷機に刻まれた製造年は1893年、10年落ちということになる。

ちなみにスターリンはこの地下印刷工場で活動を始める前、ポルシェビキの活動資金を得るため銀行を襲うなどしていたのだそうで、革命前夜とはとは言えずいぶん乱暴な話だ。


地下印刷所は1903年に施工され、1904年から1906年の間稼働した。玄関前のポーチには主に女性が見張りに立ち、警官が来るとベルを鳴らしてスターリン達に知らせ、地下印刷所には近くの他の井戸に通じる抜け道もあった、

とのこと。わずか3年しかしか稼働できなかったのは、1906年に警官が建物をチェックしている際、井戸の深さを確認するため火のついた紙を投げ込み、その紙が印刷室につながる横穴に入り込んだから、だという。いや、もう火のついた紙を投げ入れようと思われた時点で、既に終わりですから。

しかしこの後、所有者のRostmasivili氏は家を燃やし、更には永遠に亡命したとのことで、悠長な話じゃないか、とも思う。普通横穴が見つかって時点で拘束じゃないのか?いや、その前にこの家は再現されたモノだったんかい!

ここには、印刷所跡の他、スターリンとジョージア共産党に関する展示の博物館もある。それなりの規模なのだけれど資料の多くがパネルである上、まとまりのない雑然とした展示のため、解説を聞かないと何が何だかよく分からない。





案内の方は「昔ながらの社会主義者」という感じで、写真を示して「これは昔トビリシで行われたデモで、ここに俺が写ってるんだぞ!」と少し自慢げに言う。なるほど、お若い時のお顔も今のお顔にそっくりだ。

彼は私を中国人だと信じて疑わない、というか他のアジア人である可能性を全く考えていないようだった。こんな施設を見に来るのは同じ社会主義国である中国人くらいだと考えているのかもしれない。博物館でも中国は好意的に扱われているし、何人だと思われても私に特に問題はないので、「いや、日本から来ました」というのは2回だけにしておく。

彼が最後にいった言葉は「チップは入れたか?」。館内にはチップボックスがあり、多分そこに入れられるお金は貴重な現金収入なのだろう。ゴリの立派なスターリン博物館の入場料が10ラリであること、No5の入浴料が3ラリであること、チュリのワインやビールが1ラリであることから、私は3ラリが適切と考え、高らかに音を立ててお金を入れたのだが、どうやら相場としてはやや安目だったようだ。

ビール3杯飲めるし、十分だと思うのだけれどねぇ。

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