世界、大人の社会科見学!

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ボスニア・ヘルツェゴビナ 旧ユーゴスラビア

2019ボスニア・ヘルツェゴビナ② サラエボでは秀逸なゲストハウス"ホステル フランツ・フェルナンド"に泊まり、450m離れたサラエボ事件の現場であるラテン橋をしげしげと眺めた件

2020/03/13

サラエボでは 旧市街の中心部にあるFranz Ferdinand というホステルに泊まることにした。

Franz Ferdinandと聞いて「スコットランドのロックバンド?」と思う人もいるかもしれないが、サラエボでFranz Ferdinandという場合には「この地で暗殺されたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者」と考えるべきだろう。

1914年、ここサラエボ旧市街のラテン橋でフランツ・フェルナンド(Franz Ferdinand)とその妻ゾフィー・ホテク(Sophie Chotek)が暗殺され第1次世界大戦の発端となったサラエボ事件は、大セルビア主義の秘密結社「黒手組」によって引き起こされた。

犠牲になった皇太子の名前を持つこのホステルには、ドミトリーの他アパート、そして何種類かの個室があり、それぞれに"FRANZ FERDINAND ROOM"、"SOPHIE CHOTEK ROOM" "GAVRILO PRINCIP ROOM" などサラエボ事件の犠牲者や実行犯、更には "SZENT ISTVAN ROOM" "GALLIPOLI BATTLE ROOM" など軍艦や戦場の名前をつけた部屋がある。

そんな中、私は共用バスルームのツインである"SOPHIE AND FRANZ ROOM" を取ってみた。朝食込みでドミトリーなら11ユーロのところ個室で36ユーロ、本当はテーブルとイスもある40ユーロの専用バスルーム付きの部屋に泊まりたかったのだけれど、あいにく満室だったのだ。

希望の部屋は取れなかったけれど、Hostel Franz Ferdinand は極めてロケーションが良いしスタッフも親切だったし,更にはそこそこしっかりしたキッチンも使えたし、コンチネンタルだけれど朝食もついてきたし、なかなか悪くない選択だったと思う。

そんな Hostel Franz Ferdinand からサラエボ事件の現場、フランツフェルニナンドとその妻が暗殺されたラテン橋までは450m、徒歩5分の距離だ。

ラテン橋はサラエボの中心を流れるミリャツカ川にかかるサラエボで最も古い橋で、1565年には今の場所に石橋が作られたと言われている。その前には木の橋もあったとのこと。

この橋はユーゴスラビア時代にプリンツィプ橋と改名された。これ宿の部屋の名前にもなっているサラエボ事件で大公夫妻を撃ったガヴリロ・プリンツィプからつけられた名前だったのだが、ユーゴスラビア紛争後には元の名前であるラテン橋に戻された。ボスニア・ヘルツェゴヴィナのサラエボとしては、セルビア人実行犯の名前を残しておくことに抵抗もあったのかもしれない。

ちなみに「ラテン」の由来はかつてカトリック教徒が多く住んだ「ラテン地区(Latinluk)」と教会を結ぶ橋だったことに由来する。現在の橋は洪水による被害を受けた後1791年に再建されたもので、その後補修が繰り返されたらしい。橋脚の煉瓦からは時代を感じさせる風格を感じるけれど、妙に白っぽい側壁や手すりからは多少味気ない印象を受ける。

1914年6月28日、列車でサラエボに到着したオーストリア大公フランツフェルディナンド一行は、6台の乗用車でサラエボ市庁舎に向かう途中爆殺未遂事件に遭い、更に市庁舎での歓迎式典の後銃撃に遭い、このためフランツとその妻は命を落とした。こんな短時間に2度の襲撃を受けたというのもずいぶん乱暴な話ではある。

橋のすぐ傍にはサラエボ博物館がある。入場料は4マルカ(≒242円)。そんなに大きな博物館でもないし展示内容も特別ではないのだけれど、ロケーションがロケーションなのでついうっかり入ってしまう。

この博物館には英語だと "Museum of Sarajevo 1878–1918" という長ったらしい名前がついているが、 これは "Condominium of Bosnia and Herzegovina (共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)"に由来する。

1878年といえばベルリン条約が締結された都市で、この結果ボスニアとヘルツェゴヴィナはオーストリア=ハンガリーの支配下に置かれるようになったのだが、この博物館の展示はどちらかというと大公を襲撃した黒手組にも理解を示す感じでもある。かつては博物館前の歩道には「実行犯であるプリンツィプの足跡」が刻まれていたのだけれど、今では撤去されている。

「オーストリア皇太子暗殺であるサラエボ事件が第1次大戦の引き金となった」以上の知識を全く持たなかった私としては、ラテン橋に来て初めて「どうしてこの暗殺が世界大戦などという大事になったか?」という疑問を抱いた。もう少し言えば「暗殺事件なんかなくったって第1次世界大戦は起きたんじゃないのか?」くらいの事を思ったわけだ。高校の世界史の試験で惨憺たる結果を出してん十年、少しは私もモノを考えるようになったようだ。

どうしてサラエボ事件が第1次世界大戦の発端になったのか、結論から言うと、暗殺者達の持っていた武器がセルビア軍大佐のドラグーティン・ディミトリエビッチから提供されたものであることが判明し、その報復としてオーストリア=ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦したためだった。その後三国同盟と三国協商が対立する中、各国の軍事同盟があっという間に発動され、戦闘員非戦闘員合わせて1600万人以上が犠牲になった「人類の歴史上最も死亡者の多い戦争」始まった、のだそうだ。

そうだったのか、全然知らなかったぞ。

暗殺されたフェルディナントの奥さんは元女官のチェコ人であったこともあり、彼はスラブ人にも好意的でセルビアに対しても同情的で、対セルビアの強硬姿勢には反対していたと言う。それなのにサラエボに来て大セルビア主義者によって暗殺されるのだから、人生思うようには行かない。フェルディナントはむしろハンガリーを嫌っていたとも言う。

世の中得てしてそういうモノだよなぁ・・

ラテン橋

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