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ボスニア・ヘルツェゴビナ 旧ユーゴスラビア

2019ボスニア・ヘルツェゴビナ③ サラエボのスナイパー通りと旧ホリデイイン、国立歴史博物館とその裏にある狙撃手が銃を撃った旧セルビア勢力エリアのアパートを見た件

第1次世界大戦の発端となったサラエボの街は、地球の他のエリアのようにその後もいくつかの戦闘に巻き込まれるけれど、日本が「バブル崩壊」と慌てふためいていた20世紀末、4年に渡って「敵軍」に包囲され砲撃や狙撃を受け続ける状態が続いた。

"ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争" におけるいわゆる "サラエボ包囲" だ。その犠牲者数は12000人越えると言われる。

1992年ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、国内のセルビア勢力が独立した”スルプスカ共和国軍” (≒ 末期のユーゴスラビア人民軍) によって包囲された。

攻撃する側からすればサラエボは盆地であったため高地から砲撃や狙撃がしやすかったという地理的な事情があり、反面、サラエボ包囲長期化の理由の一つとして、包囲開始から2ヶ月後の1992年6月にはサラエボ国際空港が国連に解放されたという経緯もある。サラエボはこの空港によって生き延びた。

包囲されたサラエボには「平均して1日あたり329回の砲撃を受けた」という報告がある。最も多かった日1993年の7月22日には37000以上の砲撃があったという。1993年にはサラエボの全ての建造物は何らかの被害を受けたとも言われている。破壊されずに現存している建物も、よく見ると当たり前のように弾痕が残っていたりする。

サッカースタジアムの墓地は有名だけれど、油断していると市内のあちこちに墓標の密集した墓地がある。包囲されて限定された土地なのに、短い時間にあまりに犠牲者が出すぎたのだ。

これだけでも悲惨なのに、サラエボを取り囲むセルビア勢力には狙撃手も多くいた。戦争は全て悲惨だけれど、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争やサラエボ包囲の悲惨さはのひとつは、一般市民が狙撃の対象として死と隣り合わせの暮らしを送らざるを得なかったことだ。狙撃手は街の周囲を常に歩き回っていたという。

Zmaja od Bosne Street (Dragon of Bosnia Street) や Meša Selimović Boulevardなど、 いくつかの通りは特に狙撃のリスクが極めて高く "Sniper Alley" 「スナイパー通り/狙撃兵通り」と呼ばれた。もっとも危険だった狙撃兵通りでもあった「ボスニアの虎通り」"Zmaja od Bosne Street" から、旧ホリデイイン、現ホリデーホテルを眺める。

黄色い建物のホリデイホテルは、かつてはホリデイインサラエボとして、包囲下にあったサラエボで唯一外国人記者を受け入れた。電気や水道は止まっており、目の前の Zmaja od Bosne Street を通れば狙撃兵の的になるような場所だったが、他に宿泊できる場所はなかったのだそうだ。

旧ホリデイインにもう少し近づいてみる。

壁に刻まれたオリンピックのマーク。ホリデイインサラエボは、この町で冬季オリンピックが行われた1984年に開業した。まさに「ホリデイ」にふさわしいホテルだったのだが、今では「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争下で包囲されたサラエボで、銃撃を受けながらも外国人記者を受け入れた」ということで知られている。開業当時には想像もできなかっただろうなぁ。

サラエボで道路に赤いペンキ痕があれば、それは多分「サラエボのバラ」だ。

迫撃砲による砲撃で犠牲者の出た場所で、その爆発痕に赤いペンキを塗ったり樹脂で埋めたものが「サラエボのバラ」と呼ばれる。迫撃砲による被害なのでスナイパー通り以外のサラエボ市街全域にあるのだけれど、舗装や補修などで消えてしまったものも少なくないらしい。

被害の大きなスナイパー通りだった「ボスニアの虎通り(Zmaja od Bosne Street)」には、ボスニア・ヘルツェゴビナ歴史博物館がある。


一応国立の博物館なのだがその規模は大きくはなく、見学者も少ない、というか、この時には私ひとりだった。いくら冬の閑散期とは言えこれは寂しい。


展示内容はやはりサラエボ包囲を中心としたボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に関するものが中心となる。最も目を引くのは包囲下のサラエボ市民の生活についての展示だった。

電気や水道もろくにない中、市民は川から水を汲み粗末なストーブで煮炊きをし、生活をした。水を汲みに行くときに狙撃兵の犠牲になった人も少なくないという。


見学者が私しかいない中スタッフと話す機会があったので、博物館前のZmaja od Bosne Streetでの狙撃について聞いてみた。

「狙撃手はどこから撃ってきたのですか?」

「川の向こうにアパートがあるでしょ?あそこから通行人を撃っていたんですよ」

あんな近くなのかよ!

確かにFAMAのSurvival Mapによると、サラエボの西側では街を取り囲むセルビア勢力がミリャツカ川の川岸までやってきているし、河沿いに4棟並ぶこのアパートがセルビアの陣地として描かれている。

これは行ってみるしかないじゃないか!


ミリャツカ川にかかる小さなArs Aevi 橋、かつてはこのアパートの並ぶ南岸がセルビア勢力の支配エリアだった。この建物からZmaja od Bosne通りまでは直線距離なら300m程度だろう。

物によっては有効射程距離が2000mを越える現代の狙撃銃、20世紀末にだって300m程度なら、最も射程の短い第2次世界大戦中に開発された7.62x39mm弾だって楽々届く。


狙撃兵がいたアパートは、何かが特別というわけではない。1階にはちょっとした店舗があり、上のフロアには普通に人が住んでいるようだ。廃墟でも記念館でもない、ただのアパートだ。

もし可能なら上の階まで登ってZmaja od Bosne通りを見たみたかったのだけれど、エレベーターホールには鍵がかかっていた。アパートだもん、当たり前だよな。

サラエボを包囲したセルビア勢力は当時のスルプスカ共和国だった。

当時のスルプスカ共和国は「ボスニア・ヘルツェゴビナから独立した事実上の国家」であったけれど、現在では「連邦国家である『ボスニア・ヘルツェゴビナ』の構成体のひとつ」だ。通称「セルビア人共和国」でもあり、独自の大統領や行政府、立法府を持つ。ちなみにボスニア・ヘルツェゴビナのもう一つの構成体は「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」だ。

かなり話がややこしいのだけれど、「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦+スルプスカ共和国=ボスニア・ヘルツェゴビナ」なのだ。「連邦」と名乗る方が構成体であるという、よく分からない状況になっている。

スルプスカ共和国はまだ存在する。そしてサラエボは「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国の国境の街」でもある。

サラエボ包囲時にはミリャツカ川の南側がスルプスカ共和国勢力の支配エリアだったけれど、現在この地域は「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」であり、スルプスカ共和国との国境はここから1km程南に行った地点、Vraca Memorial Parkの辺りになる。

ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国の国境にはゲートも緩衝地帯もない。「連邦国家であり同じ国だから当然」と言えば当然なのだけれど、今までの経緯を考えるとこれはこれで凄いことなんじゃないかと思わないでもない。

サラエボの旧ホリデイイン

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