世界、大人の社会科見学!

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youtube動画 クロアチア 旧ユーゴスラビア

2019クロアチア⑧ ザグレブの主要な観光スポットを半日で見て回った件 その2、プリシュリノヴァ要塞、トゥカルチチェヴァ通り、そして血の橋と石の門で、ザグレブを構成した2つの街の対立と当時の治安について考える

2022/10/03

4.プリシュリノヴァ要塞 Park Opatovina

ザグレブ大聖堂の正面を南北に通るカプトル通り(Kaptol ul.)を北に300m程歩くと、聖フランシス教会に出るので、そこを左に曲がってオパトビナ通り(Opatovina ul.)を西に進むと公園が見える。

今ではここはオパトビナ公園と呼ばれているが、かつてここは要塞だった。大聖堂同様オスマントルコの侵攻に備え城壁が作られ、当時の防衛軍将軍の名前から「プリシュリノヴァ要塞」と命名された。

以前も書いたとおり、ザグレブ旧市街を構成するアッパータウンには、カプトル(Kaptol)とグラデツ(Gradec)という2つの街があった。

カプトルはアッパータウンの東側、大聖堂を中心とした聖職者の街であり、グラデツは後述する聖マルコ教会を中心とした商人の多い自由都市だった。プリシュリノヴァ要塞はカプトルに属し、第2次世界大戦以前には、聖職者たちの野菜畑や果樹園やあったのだそうだ。

要塞が作られた時期は「大変に治安が悪かった」と観光案内所の案内には書かれている。聖職者の街なのにねぇ。今は城壁も残るのんびりした公園だ。

5.トゥカルチチェヴァ通り Tkalciceva Street

アッパータウンを構成していた2つの街、カプトル(Kaptol)とグラデツ(Gradec)の境界は、メドヴェシュチャック川という小川だったが、街の発展に伴い川は汚れ、19世紀末には埋め立てられ、今ではトゥカルチチェヴァ通りというおしゃれで賑やかな通りになっている。

地形的にカプトルとグラデツは、アッパータウン東西にある2つの丘を中心とした街で、その境界が小川であることは理にかなっている。2つの街が合併したのは1850年、都市としてのザグレブの誕生でもある。

合併が19世紀半ばであり、メドヴェシュチャック川の埋め立ては19世紀末なのだから、トゥカルチチェヴァ通りは新しい街ザグレブの象徴のようにも思える。実際、アッパータウンで一番レストランやカフェが多いのがここトゥカルチチェヴァ通りだ。

6.血の橋

2つの街の境界だったメドヴェシュチャック川はもう埋め立てられてしまったが、未だ地名を「橋」とする短い通りが残されている。「血の橋」、クルヴァヴィ・モスト(Krvavi Most)だ。この橋(通り)は、カプトルとグラデツの微妙な関係を象徴している。

 

以前、グラデツとカプトルの2つの街を「経済的な理由で諍いが絶えず」と書いたけれど、その諍いの理由の1つが、埋め立てられたメドヴェシュチャック川にあった水車小屋の水利権争いでもあったらしい。そんな2つの街をつなぐ「血の橋」ではたびたび流血事件があった。

カプトルはハンガリー王ラースロー1世によって11世紀に司教区とされ、グラデツはその後別の独立した集落とし形成され13世紀にベーラ4世によって自由都市とされた。小川を挟んだ2つの丘にあるこの街は、政治的にも経済的にも競い合い、というより、反目していた側面もあり、カプトルがグラデツを破門したり、その報復にグラデツがカプトルに放火したりと、あまり良い関係ではなかったようだ。

といって完全に対立していた訳でもなく、3年に1回は2週間に渡って一緒にお祭りを行ったり、経済がうまく流れないときには合同で大規模投資を行ったりと、協力するときには協力もしていたようで、まぁ、いろいろ面倒くさい関係だったようだ。「手を取らなければならないこともあるけれど、そんなにうまくも行っていない隣人」という感じだったのかもしれない。

今の「血の橋」は橋も川もないただの短い通りだけれど、アッパータウンに歴史の異なる2つの街があったこと、そしてその2つの街がかつて地味に対立していたことを入れておくと、ザグレブ旧市街の見学はより興味深いものになるし、ただの細い道である「血の橋」も見逃せないと感じられるようになる。

7.石の門 Kamenita vrata

石の門は、自由都市グラデツ側に巡らされた城壁にあった門の1つだ。カプトルの大聖堂を囲む城壁同様中世に建てられたというのだから、ここはオスマントルコの侵攻「など」に備えた、と考えるのが自然だろう。

かつて6つあったとされるグラデツの門の中、現存するものはここしかないのだけれど、現存といってもかつての門は1731年の大火で焼かれ、再建されたものであるらしい。

「オスマントルコの侵攻『など』に備えて」と書いたのは、かつてのグラデツは城壁の外の治安は極めて悪く、強盗や山賊が跋扈しており、城壁にはそんな勢力から町を守る意味合いも大きかったらしいのだ。そういえば旧プリシュリノヴァ要塞も「大変に治安が悪かった」とあったし、「昔のザグレブ、どれだけ危ない街だったんだよ!」と思ってしまう。

そんな治安の悪いエリアに住んでいた人たちにとっては、オスマントルコの侵攻より明日出会うかもしれない強盗の方が身近で恐ろしい存在だったのかもしれない。

石の門の中には、聖母マリアの礼拝堂がある。石の門を通って治安の悪い外部に出るとなれば、安全を願って祈るのは極めて自然なことだ。

1731年の大火の時にも奇跡的に焼けなかった聖母マリアのイコンは、今でもザグレブ市民の信仰を集めている。毎年5月31日の「ザグレブの日」には、この門の前でお祭りが行われているのだそうだ。大聖堂も美しいけれど、市民の信仰を集める小さな礼拝堂も、また美しい。

トゥカルチチェヴァ通り

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