2006 北タイドライブ (Nasu 4歳)
10 「国民党の村 Ban Rak Thai」
さぁ、社会科の時間ですよ〜 ^^
1949年、中国国民党は中国共産党との内戦に敗北、台湾に逃げ込み中華民国政府をここに移した。大陸では中国共産党が中華人民共和国の成立を宣言、いわゆる「二つの中国」はここから始まる。
ところが国民党が逃げたのは台湾だけではない。西南部で闘っていた国民党軍はタイをはじめ、ビルマ(ミャンマー)、ラオスなどに逃げ込んだ。
もともと雲南省南部からタイ北部にかけての山間部は山岳民族の領域で、国境などの観念はあいまいだったこともあり、他国に侵入というより、「すまん、逃げてるうちに入っちゃた ^^;」ようなものだったのかもしれない。
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山岳エリアに散らばっていた国民党軍の一部は中華民国に帰った。特にビルマは「これは領土侵犯だ」と国連に提訴(あたりまえですね ^^;)、ビルマ領内の1万人を帰国させている。
タイ領内に逃げ込んだ国民党軍は、来るべき本土決戦に向けて、国籍や領土問題をうやむやにしたまま、反撃の機をうかがっていた。しかし一向に反撃の機はやってこない。内戦は事実上休戦状態となり、どちらの政府も国作りでそれどころではなかったのだ。
タイとしてはやはり、その国の軍隊が自国内で軍事活動をするのは困る。が、山岳地で大規模な軍の派遣がやっかいでもあり、見て見ぬふりをしたり、共産ゲリラ対策に利用したり、「非公認の国境警察」がわりに使ったり、公式には撤退を要求しつつ裏では利用するなど、タイらしくしたたかに対応してきた。文革時代に逃げてきた大陸の中国人も少なくないと聞く。
山岳部の国民党軍にあまり良い話はない。帰ろうと思えば帰れるのに居残ることが不自然だし、地域の山岳民族にケシの栽培を強制したという「噂」もある。更には彼らの主な収入源は阿片の栽培と、阿片運搬業者から受け取る通行料だったという「噂」もある。
「噂」はまだまだあるぞ。ゴールデントライアングルとして名高いこの地域を支配していたクンサー(張奇夫)は、国民党兵士と現地シャン族との間に生まれ、一時期国民党の活動にも参加していた、らしい。もちろん、クンサーと国民党軍の関係はツーカーで、国民党に通行料を支払わない阿片運搬業者は滅んだ、との「話」もある。事実、タイと北西部との国境エリアは、一時期7割が国民党軍の支配下にあったとのことだ。
当時、このエリアと私の定宿があったバンコク中華街(ヤワラー)の一部、そしてとっても怖いシンジケートや中華民国政府の間には、素人は知ってても知らないふりをするべき怪しい関係があった、という「噂」も聞いた。
* この辺の話はこちらが詳しくお勧めです。面白い!
「国家領域形成の表と裏
- 冷戦期タイにおける中国国民党軍と山地民 -」片岡樹氏
http://www.cseas.kyoto-u.ac.jp/seas/42/2/420204.pdf
私が初めてタイの国民党軍の村を訪れたのは4半世紀前だ。チェンマイから国境に近いファンという街まで車で移動し、そこから山岳地帯に入った。もちろんチェンマイで募集していたトレッキングツアーだ。こんなこと個人で行うのはリスクが高すぎる。
当時はパンフレットにも "KMT Camp (国民党基地)" とあったし、中華民国の国旗と軍事演習のようなものを見た。昔のことなので記憶違いがあるといけないと調べたところ、1986年にその支配地がタイの行政内政に組み込まれていた。
やはりあの頃の国民党の村は、台湾の飛び地扱いだったようだ。タイ国内で中国国民党が地域を支配し軍事活動と怪しい活動をしていたのは、記憶違いではなかった。
と、私はタイ国内に残る国民党の歴史について、運転をしながら子どもたちに語る。子どもたちはよほど私の話が興味深いらしく、目を閉じたままじっとしている。時々頭が突然下がったり口を開けて上を向いたりはっと目を開けたりしているが、とにかくじっと聞いている。微動だにしない、と言っても良い。
一見眠っているようにも見えるが、私の考えすぎだろう。
とにかく、車はメーホンソンから小一時間程のところにある "Ban Rak Thai" という国民党の村を目指している。
Ban Rak Thai (バンラクタイ) は国境の村だ。メーホンソンもかなりの山奥で国境の街と呼ばれているが、ここは「裏山はもうビルマ」という、五つ星の国境の村だ。もちろん外国人用のイミグレーションはないが、地元の人たちは国境などお構いなしに出入りしている、という「噂」だ。
村に入る直前、検問所がある。警察ではなく軍の検問所のようだ。我が家はこの冬に大陸中国、しかも雲南省にいたので、多少は怪しまれる要素がないではない。若干の緊張感をもって検問に応じるが、 「中国の村を見たい」 というと、何も調べもせずあっさりと通してくれた。ちょっと拍子抜け。
村に入る。小さな村、というより集落だ。しかし小さな集落であるにもかかわらず土産物屋と食堂が多い。車を駐めると、土産物(主にお茶)や食堂から声がかかる。
単なる観光地ですな、ここは ^^;
小さな村だけに、かえって本土より中華情緒がある。西遊記のロケに是非お勧めしたくなるような建物や街並みだ。
村には学校もある。中華学校かと思ったが、どうもタイ語で授業をしているようだ。来客を珍しがって寄ってきた子どもたちも、中国語(北京語・福建語・広東語)ではなく、タイ語を話す。だが、ビルマの習慣である「タカナ」を頬に塗っている子も多い。やっぱり国境の村なのだ。
しかし軍の施設や練兵場のようなものは、全く見あたらない。
考えてみれば、私が国民党軍の訓練を見たのは25年前だ。その頃には内戦時代少年兵だった兵士もいただろう。1950年に15歳だとすれば、1980年には45歳だ。
しかしそれから更に25年、その頃45歳だった兵士ももう70歳。台湾企業が大陸に工場を作りそこに台湾学校ができたこのご時世、軍事訓練なんかやってられないわなぁ。^^;
しかし、建物をよく見ると、やはりここは中国・国民党の村であることが分かる。建物には「民国71年」などと民国歴が刻まれているし、少し村を離れると「大陸の同胞を救済するための農場」などもある。
とはいえ、この村のほとんどの人は、ここで生まれて育ったのだろう。もちろん法的にもタイ人だけれど、民族としても中華民族というよりタイ民族、あるいは山岳民族のアイデンティティを持っているように見える。「中国」はここでは観光のためのキーワードでしかないのかもしれない。
もっともこういう国境地帯、裏で何があるかは当事者以外には何も分からないのだけれど。少なくとも密入国程度は日常茶飯事なんだろうな。他にもいろいろあるのかもしれないけれど、うかつなことが分かると怖いから調べない。^^;