2006 北タイドライブ (Nasu 4歳)
17 「初めてのお祈り ドイステープ - チェンマイ」
子どもたちにとってチェンマイは初めての土地だ。
車もあるし、せっかくなので定番の観光地くらい見せておこうと「ドイステープ」に向かう。ここは昔からチェンマイを代表する寺院であり観光地だ。山の上にあるのでチェンマイの街並みを見下ろすことも出来る。正式名称は「ワット・プラ・タート・ドイ・ステープ」と言う。タイ北部ではなかなか格式の高い寺院らしい。
http://www.doisuthep.com/english.html
昔あった、乗ったが最後1/10の確立で事故に遭いそうなケーブルカーはさすがになくなっていて、その代わりに立派なエレベーター型リフトが出来ている。ここも少しずつ変わっているのだな。
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平日の夕方も近い時間なのだけれど寺院にはそこそこの人がいて、中にいくつもある仏像の前でお祈りをしている。それを次女が興味深げに見ている。
このお寺にある仏像は、金箔が貼られていたりカラフルに着色されていたりと、日本のものより派手だ。しかも本堂の奥に隠れるようではなく、参拝者から見えやすいところに安置されている。そのため参拝の様子が大変に分かりやすいのだ。
次女が言い出す。「あれ神様?」
いや、神様というか、わしらは仏様と呼んでいるんだけれど…。そう言えば仏陀以外の像も多くあるけれど、やっぱりこれは仏様なんだろうか? いや、仏様は仏陀だけであとは神様なのだろうか? しかしこの場合一番偉いのは仏陀であって、神様が仏様より格下というのも、なんかまずい気もする。 だいたい神様ってなんなんだ? 本気で考えると結構むずかしい。よく分からない。本当に分からない。
そういう訳で私は答える。
「うん、そうだよ。(きっぱり) 」
すると今度は「お祈りをする」と言い出した。周りでたくさんの人がお参りをしているし、過去4年の人生の中で「神様にお祈り=良いこと」という知識を得たのだろう。
しかたがないので、仏像に絶対に足の裏を向けてはいけないこと(タイのローカルルール)、目を閉じて手を合わせることなど、「お祈り」のしかたを教える。
「お祈り」の方法を覚えた次女は、寺院の中を気の向くまま徘徊し、気に入った「神様」を見つけると「お祈り」をする。何を祈っているのか、実の父にも想像がつかない。もしかしたら「世界中の飢餓と争いがなくなるように」と祈っているのかもしれないし、「ラブandベリーでミラクルカードが出ますように」とねだってのかもしれない。
あまりあちこちで「お祈り」をするので大変に目立つ。
事情を知らない人には「大変敬虔な異国の仏教徒幼女」に見える。
ついにその姿は寺院の僧侶の目に止まり、本堂に招かれる。な、なんだか大事になってきたぞ?
次女だけを本堂に送る訳にもいかないので、私も同行する。するとどうやらなかなか偉いらしいお坊さんが、私たちにお清めをして手首に綿の糸を結んでくれた。お守りのようなものなのだろうか。娘は大変に満足げだ。
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さて、その御利益はというと、これがあっという間に現れた。なんだか次女の口調が参拝前と違うのだ。少し大人しい、穏やかな口調に変わってしまっている。ひょ、憑依か??
どうやら、世界の平和を願おうとラブandベリーのミラクルカードをねだろうと、「お祈り」という行為には人の心を穏やかにする効果があるようだ。神様や仏様についてかなり誤解をしているとは思うが、なんとなく「これはこれでいいや」と思わないでもない。
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ちなみに私は無神論者ではないが、既成のどの宗教組織にも所属していない。典型的な葬式仏教の日本人だ。信仰心は大切だし、魂の存在は信じるし、神(のようなもの)は存在すると思うけれど、それを人間がどーのこーの言い出すと、ちょっと怪しげに気分なる。宗教が組織になった場合には作用より反作用の方が大きいのでないか、とも思う。
サリン事件を挙げるまでもなく、人間が支配する宗教組織は今まで結構な悪事をやってきた。この世界の老舗であるローマカトリックだって「神」の名のものに強奪やら大量殺人をしてきた。
もしかしたら、人間と「神様」の距離は、次女程度で良いのかもしれないなぁ。